As Usual
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庭にクチナシが咲いている。濃厚な香りだ。金木犀、沈丁花とともに三香木に数えられる。
花の色が純白だ。これ以上白い花を他に知らない。梅雨時、葉の濃い緑によく映える。花びらが厚めで、淡い光沢を伴う。身近に見ると、その香と相俟って存在感を放つのだが、花が白一色だからか、遠くから眺めるとそれほど個性的には感じられない。 そういえば、金木犀や沈丁花も花は小柄でささやかだ。遠くから見ると花はあまり目立たない。香りが人を振り向かせる。「どこに香りの源があるのだろう」と思わせるところが鍵だ。 個性というと、部分の特殊性に注目しがちだが、総体としてのあり方、全体の中に置けるある部分と他の部分との多方向の関係が本当の妙味をもたらす。真っ赤な巨大花に強い香りが宿っていては、多分香木には選ばれなかっただろう。 自然に学ぶことは多い。 #
by bgst
| 2014-06-19 18:30
梅雨のさ中、比較的湿度が低い日が続いている。大変ありがたい。
十代の頃から暑さと湿気は大の苦手だ。夏になるとできるだけ涼しいところを選ぶ。休みの日は高原を、旅行であれば北海道とかヨーロッパを目指した。大学生以降、ミュージシャン活動をしていた頃はもっぱら冷房が効いたスタジオや家の中で曲を作ったり演奏していた。音楽をやりながら過ごしたサラリーマン時代初期は、できるだけスーツやネクタイは避けていたが(当時はまだ世の中ではノーネクタイは普通ではなかったが、もともとそういう「習わし」には抵抗する方だったから)、80年代以降に入ってからは職場での服装が自由化したため何の問題もなくなった。ただ、外部での会議や会社がらみの社交儀礼上どうしてもスーツにネクタイという場面も多かった。そういう時は、着替えを持ち歩き、会議、パーティー、イヴェントなどの前後に着替えていたものだ。以前、このBlog にも書いたが、夏の公用時の服装は浴衣のような和服にするのが日本の気候上は相応しいと思う。洋服は湿度の低いヨーロッパで発達したものだ。 最近の官公庁・ビジネス界はクールビズとかいってノーネクタイでやっている。そういう傾向は一般論としてはいいと思うが、皆似たような服装で気持ちが悪い。もっともクールビズも「お上主導型」の典型のような形で始まったから、個人が好きにいろいろな服を着るという「道筋」も、まずはお偉い人が言わないと始まらないのだろう。 もちろん、上からの指令なりお達しのようなものがないと一般に広まらないというのはこれに限ったことではない。むしろ、よく起こる。日本のお家芸といっても過言ではない。 湿気の話がお家芸の話になってしまった。でも、こうとりとめもなく書くのもいいかもしれない。 そう思った途端、またしても思い出した。最近の憲法についての政府の動きだ。「憲法の解釈」云々、情緒先行型の一人芝居に日本全体が巻き込まれている。今回は日本のお家芸は歓迎しない。梅雨の合間の晴れ間の如く、カラッときれいに幕切れとあいなるべし。 #
by bgst
| 2014-06-16 08:15
雨去りて、清き風
夜露の囁き、静けさの誘い とめどなく打ち寄せるさざ波の 叶う叶わず、想い再び #
by bgst
| 2014-06-12 21:51
おっと、玄関先の石畳に蛙がお出迎えだ。この季節、夜遅くなると時々そういうことがある。灯下に獲物を求めてじっとしていたのに、現れたのは人間だったという構図だ。
蛙の視力は動いているものに対しては極めてよく働くが、静止しているものに対してはほとんど効かないという。目にもとまらぬ速さとは人間仕様のフレーズらしい。ただ、スポーツ選手などは例外的に動体視力がいい。原始時代の狩人もよかったのではないか。現代人は相当退化しているような気がする。 聴覚、嗅覚、味覚、触覚も退化の一途だろう。感覚を研ぎ澄ませる必要性が明らかに低下しているためだ。大型獣に襲われることはもうない。食べ物は安全が予め確保されたものが用意される。科学的に解明されているモノが多いから、何だかわからないものに無暗に触ったりしない。 五感がこの有様ということは、第六感もやられているはずだ。殺気など言葉こそ残っているが、実際身に迫る大きな危険を体感できる人はそうはいまい。現代人は動物的感覚から最も遠ざかったところにいる。 今度は、蛙の気配を事前に察知してみるか。 #
by bgst
| 2014-06-12 18:37
「井の中の蛙」といえば、「大海を知らず」になる。
でも知らないのはあたり前だ。蛙にとって、大海とは認識できるものではない。よって、知らないからといって不幸でも問題でもない。かえって知らない方が余計なことを考えずにいいかもしれない。 「大海を知らず」とは人間だから言えることだ。その人間といえば、いろいろ知り過ぎているが故に悩みが多い。知っているということが必ずしもいいわけではない。 客観視できることが大人、というのは的を得ているようではあるが、その的が本当に真の的なのか考えてみるといい。小さい子供に何年も続く悩みはない。 知ることは大いなる楽しみではあるが、悩みの源泉でもある。 #
by bgst
| 2014-06-11 20:48
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