As Usual
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遠くから見て、ああ観葉植物が植わっているなと思い、近づいてよく見ると、それが作り物だったりすることがあるだろう。最近ではそういうフェイクものの精巧さが増し、花、枝、葉どれをとっても本物によく似てきた。
JR東日本の山手線を利用する人は知っていると思うが、ペンギンが女性と一緒に買物をしたり、ダチョウがスキーをはいて、山の斜面をうまく滑り降りたりする宣伝ヴィデオがある。どちらも動物を高度に擬人化することに成功している。 広告宣伝では、コンピューター・グラフィックスが駆使され、あたかも本物のような、とてもリアルな写真や映像が使われている。その昔、「合成」された写真であることが小さく注書きで書いてあったりしたが、最近ではありとあらゆる場面で使用されているため、注書きが存在しないものも多い。 CDに録音された歌や楽器演奏は、デジタルにミックス(編集)されたものが主流となっていて、たとえ音程を外れて歌おうが、楽器を間違って演奏しようが、ミックス段階で修正することができる。メンバー全員が緊張して、一つも間違えないように、一回で録音を終えるなどというのは、むしろ珍しい制作方法になってしまった。音楽の種類によっては、歌手や演奏家は本物である必要はなく、ミックスが本物でなければならない、という逆転現象すら見える。 似て非なるものが存在する。或いは、現実には存在しないものが視聴覚的に作り出される。こういう状況は人々の意識を大いに揺さぶる。ある程度の鑑識眼はあるが、人工のものをむしろ面白がって楽しむ人と、エセとして嫌う人。状況全体を眺めて、人間の飽くなき創造力を評価する人と、これを荒唐無稽な無駄な創造として評価しない人。いろいろある。 ただ、普段の生活の中で、大量の非常に精巧に作られた(架空の)物やコピーに接する一方、現実、実物や本物といわれるものに触れる機会が少なくなると、意識が本来あるべき位置から動くことになる。造花だけに囲まれて暮らすのは、水や肥料をやって植物を育てるのより手間はかからないが、生物のみが持つ色形に対する意識が鈍くなる。ダチョウがスキーをするのを見るのは面白いが、ダチョウの本当の生態はわからない。ペンギンは可愛いし、人間と一緒になって買物ができればいいなあと小さな子供は思うかもしれないが、ペンギンが羽(手)を差し出して物を持つことなどできないことは知らない。 視聴覚的に創造されたものが、もっと非現実的なものであれば、つまり、うまくできてなく、似ていなければいいのだが、創作意欲と技術はそれを許さない。 こんなことは映画や劇やマンガでも経験済みだし、古くは書き言葉や話し言葉だって「大量の非常に精巧に作られた(架空の)物やコピー」だという議論もできる。コンピューター・グラフィックスやデジタル録音はその延長線上に過ぎないともいえる。でも、現在でいう「大量」と「精巧」の意味合いは過去のそれとは格段に違う。人によっては「大量の非常に精巧に作られた(架空の)物やコピー」の世界が広い範囲の意識野を占めることになってしまっている。そうなると、たとえ(常人にとっては当たり前だが)現実の中で生活しているとしても、意識は現実に密着していないということになる。 夢うつつの中を生きるのは、覚めないうちは現実との葛藤を意識せずにすむが、覚めたあとに現実を取り戻すという後ろ向きの作業が待っている。生きているのであれば、やはり目の前の現実を生きなければ、本当の面白さはなく、真実は遠くなる。
by bgst
| 2006-02-02 14:01
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