As Usual
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メモ
歳をとるごとにいろいろ面倒くさくなるという。以前、趣味で一生懸命やっていたこともだんだんやらなくなる。普段の基本的な生活の中にも怠けてしまうことが出てくる。家の中の掃除が雑になる。服装にもあまり頓着しない。世の中では、そうなることは普通だと見なされる。「歳のせい」という言い訳が使われる。冷静に見ればそれは人としての劣化なのだが、許容される。 別の見方もしてみよう。歳をとると、長年の経験により、世の中の事象について無意識のうちにプライオリティーを付けるようになる。それもプライオリティーの「大」「中」「小」をはっきりさせる。それが行動に反映される。プライオリティーの基準が変わり、かつて重要とされたことが重要でなくなる。趣味は「たかが趣味」になり、掃除も服装もちゃんとしなかったからといって「すぐに病気になったり死ぬわけではない。」 人は身体の老化、精神力の衰えから免られることはできない。死の直前まで強靭な精神力を保つことが不可能ではないにしても、死をもって精神活動も終了する。年齢を重ねるにつれ、面倒がるようになるのは、プライオリティーが変わった中、「普段のメンテナンス」の重要性より死や病気の迫真性の方がより明瞭になってくるからだ。 だが、これは健康な人の場合は必ずしも意識化されていない。こちらも、ピンピンしている人に向かって、「刻一刻と死や病気が迫っていますよ」と言ったりはしない。だから、「歳のせい」になる。 #
by bgst
| 2014-06-29 12:59
ヤモリのことを書いて一日たったら今度はカタツムリを思い出した。子供の頃、梅雨時になると必ず現れた。小雨降る中、紫陽花の葉の上にたくさんいた。それが普通の光景だった。
生き物がいなくなっていく。こういうことは繰り返されているのだろう。母親が子供だった頃、近くを流れている呑川では鰻やドジョウがとれた。今やこの川はコンクリートで「完全武装」された巨大溝になっている。 と、普通はこういう文章ではノスタルジー的な終わり方をすることが多い。昔を懐かしむというのは悪いことではないが、情緒的な感慨だけでは片手落ちであろう。 時代を大正、明治、江戸とどんどん遡り、縄文時代前期に戻すとどうなるか。呑川は存在していない。縄文海進の時期には、現在台地となっている所以外はあたり一面全部海だった。 人はどうしても自分に引き付けて物事を考えがちだ。普段はその枠の中で過ごすことが多い。だが、一定のフレーム内に安住するということは、そのフレームの限界の中で生きるということだ。時々は、敢えてそこから脱することが知的訓練になり、知恵を育むことにもなる。 普通でない普段は自ら作り出す。 #
by bgst
| 2014-06-24 10:17
最近どうもいない。数年前までは梅雨になるとヤモリが家の外壁などに張り付いていた。家の周辺が彼らが生きられない環境になったのだろう。こういう形で環境の劣化を実感するのは大変さびしい。
以前は地蜘蛛も外壁に沿って土の中に続く巣を作っていた。これももういない。蝦蟇はかろうじて見かけるが、数が少なくなったのと、個体の大きさが随分と小さくなった。昔の半分以下の大きさだ。 生き物が生きていけない環境に人間だけが生きている。と、思ったが、考えてみればこの「人間だけが生きている」という言明にある「生きている」の質が問題なのだ。純粋に動物としての人間の身体的な質、人間特有な活動をするにあたっての心の質、どちらも例えば百年前、二百年前に比べて改善しているだろうか。 確かに、寿命は延びた。乳幼児死亡率が大幅に落ち、高齢者が生きながらえる確率も増えた。でも、人口あたりの疾病数や病気の深刻度はどうか。心の病いを患い、不幸を感じる人が増えていないか。心の犠牲の上に身体の存続が図られていないか。寿命は延びたが、それは「不幸の延命」ではないのか。これで本当に「生きている」と言えるのか。 ヤモリのいない梅雨空の下、少しばかり暗い思いに至る。 #
by bgst
| 2014-06-23 09:36
早朝の静けさが好きだ。
この時期、日が昇るのが早い。早起きしてすぐに窓を開け、風を通す。車や電車の走行音、近隣の生活音など気になる音がしない。風だけがそっと忍ぶように身体の脇を過ぎていく。 すべてがゆっくりとしている。時の経過速度は騒音の量に反比例する。 そう思わせる今日の朝だ。 #
by bgst
| 2014-06-20 07:46
毎年、三、四日のみだが、個人的にこれこそいい日だという日がある。
共通点は、晴れている、強過ぎないが微風ではない髪がなびく程度の風が吹いている、湿気がない、あまり暑くない、などだ。5-6月や 10-11月に多い。多分、無意識下には、これ以上の数多い要素が関係しているのだろう。でも、意識していない、忘れている、というまさにそのあたりが大事なのだ。 余計なことは忘れ、自然が恵む心地よい日よりに身を委ねる。 今日はそういう日だ。 #
by bgst
| 2014-06-19 19:56
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