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知らないということは恐ろしいと同時に楽しい。知らないと間違ったことを人に伝えてしまう。でも知らないと、知ることの楽しみがある。
北海道と本州の境にブラキストン線を見つけたThomas Wright Blakiston (トーマス・ライト・ブラキストン)のことを少し調べてみた。以下、オリジナルの資料にあたっていないので、全て正しいかどうかはわからない。動植物学者のように考えていたイメージといかに違っているか示すために書いておく。 1832年12月27日、イギリス・ハンプシャー州のリミントンに貴族ジョン・ブラキストンの次男として生まれた。裕福な家庭で、幼い頃より鳥に興味をもって育つ。15歳でウールウィッヒの王立陸軍士官学校に入学、卒業後はイングランド、アイルランド、ノヴァ・スコシア(現カナダ)などで砲兵士官として勤務している。クリミア戦争に従軍した。砲術にたけた陸軍大尉であった。退役後の1857 - 1859年、イギリス北米領(現カナダ)にてパリサー探検隊に加わるとともに、鳥類を調査した。日本に来たのは1861(文久元)年、箱館(函館)が最初。1862年には揚子江上流を探検したり(その業績により同年、イギリスの王立地理協会よりPatron's Medal を受賞)、ミャオ族の調査をしたりしていたが、一旦イギリスに戻り、シベリアでの製材事業の準備にいそしんだ。東シベリアに苦労して到達したまではよかったが、ロシア政府の事業認可が下りず断念。1863(文久3)年に再び箱館に来て以後約20年滞在する。友人と「ブラキストン・マール商会」を設立、貿易商として船を所有し、北海道の産物を青森、横浜、神戸、長崎、遠くは上海、烟台、香港にまで届ける。明治元年から翌年にかけては明治政府と旧幕府側双方に武器を売って儲けたといわれる。蒸気機関を利用した製材や製氷、火災保険、青函連絡船などの事業も行う(1871年にマールが死亡しているが、これがその後の事業の行き詰まりに関係しているや否や)。一方、鳥類標本(北海道大学に現存)作りをしていたが、北海道と本州の間で鳥の種類に大きな隔たりがあることを発見、1880(明治13)年にブラキストン線につながる最初の考えをまとめHenry James Stovin Pryer(ヘンリー・ジェームス・ストーヴィン・プライヤー、横浜で火災や船舶保険の代理店に勤める。東京博物館の嘱託もした)とともに発表した。1883年にはこれを発展させた論文を発表している(ブラキストン線と命名したのは東京帝国大学教授であったジョン・ミルン)。気象観測を自宅で行ったものが後に函館気候測量所に継承されたり、北海道開拓使の依頼を受け、北海道産のビールの吟味をしたりしている。一説に日本で最初にスケートやソリをした人物といわれる。酒もタバコもやらず、唯一の欠点は短気であったらしい。多くの日本人が彼を慕い、彼はそれに応えた。函館湾での帆船レースでは相当の賞金を出したりしている。アイヌに同情し、そのために貿易したともいわれる一方、イギリス密偵の役割を担っていた(特に対ロシア)という評価もある。(伊藤博文がイギリス公使館を焼き討ちしたのと同じ頃に日本に来ているというのもおもしろい)。北海道開拓使で働いていたエドウィン・ダンの次女と52才で再婚したが、貸した金や事業投資が回収できず、失意のうちに日本を離れたといわれている。1886(明治19)年、当時のカナダ自治領に渡り、ロッキー山脈のあたりを探検している。1891(明治24)年カリフォルニア州サン・ディエゴで肺炎にかかり死亡、オハイオ州コロンバスに埋葬された。 生物の授業でブラキストン線を教わるが、そのとき、先生が少しでもブラキストンの別の顔を紹介してくれれば、とても興味深い授業になると思う。結局、ブラキストンの本業は何だったのだろうか。 参考:Thomas Blakiston in Japan、青函地域大事典、市立函館博物館、統合戦争辞典、函館物語(5):ブラキストンと福士成豊(日本最初の気象観測所)、函館百珍と函館史実、文芸春秋、Tanishi World、函館海洋気象台、福島町史、コレクターのショーケース、道南ミュージアム、白い国の詩、日本新事業支援機関協議会、函館の幕末維新開化叢書、そりと角巻、Sapporo Factory、写真で見る函館の歴史、白夜の夢、城めぐ.com、函館からトラスト、In the Footsteps of Thomas Blakiston、Wikipedia、Royal Geographical Society、Births, Marriages & Deaths
by bgst
| 2005-07-11 17:50
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