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As Usual
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この頃ジャスミンがかぐわしい。たくさん種類があるそうだ。白や黄色の小さな花が密に咲いているものをよく見かける。夜、静かな住宅街を歩いていると、香りがすっと飛び込んできて驚かされる。普段は目が先に他の感覚を制してしまっている。時には目に引っ込んでもらおう。
街路や公共施設、宅地ではごく新参者の方だ。まだそんなに広がってはいない。でもあと五十年もすれば、金木犀に伍するようになるのだろうか。ともに「外来系」だ。金木犀は江戸時代に中国から入ってきている。随分前から庭木として定着しているが、ジャスミンはこれからだ。花の時期が重ならないから共存していくかも知れない。 短い期間だが、ともすれば無機質になりがちな都会に、普通ではない普段を演出してくれる。
知らないことがたくさんある。これはいたって普通のことだ。毎日、いろいろ新しいことを知る。よほど変わった生活をしていなければ、これもあたりまえだ。いろいろ毎日知ったとしても、知らないことは限りなくある。これも常識といっていい。
知っていることがごく限られているからこそ、自分にとって新たな「発見」がある。未知の領域にわくわくする。知ることが楽しくなる。中には何だか怖いようなものもあるが、それも知ってしまえば、ほとんどは恐れの対象からはずれていく。 「知っている」と思っていても、実は、知っているコトやモノには更なる奥がある。これも、ほとんどの場合、際限なく「その次」の奥が続く。扉が開くと、その先にまた扉がある。これ以上ないと思われる時でも、新たな扉が用意されている。 人間にとって、すべてを知り尽くしたということはあり得ない。楽しみの源泉は涸れることがない。
今年は冬の終わりが遅かったためか、草花に異変があった。スミレも花ニラもシャガも、咲いたことは咲いたが、数が例年より大幅に少ない。それに咲いたと思ったらあっという間に終わってしまった。無理もない。4月の一月に冬から春、そして初夏までが詰め込まれていた。
当然、他の生き物にも影響はあろう。自覚しているかどうかは別にして、人間も一ヶ月でトランスフォームを強いられた。確か 4月の第一週にはコートが欲しい日があったはずだ。早過ぎる季節の変化についていけない。そう思っている人は多いだろう。 5月に入ってからは、ちょっと歩けば汗ばむ日があった。でもその翌日からは長雨となり、うすら寒い感じさえした。東京は今日も朝から夕暮れ時までずっと雨だった。住んでいるのが古い日本家屋とあって、今はセーター姿だ。 今年は太陽活動にも異変が起きている。太陽フレアの活動が活発化して通常より多い量の磁気や放射能が降ってきた(よって、大規模オーロラが頻繁に見られた)と思ったら、先月下旬になって、今度は太陽が「冬眠」(5月に太陽の北極のみが反転し、太陽の赤道付近に別の極ができる「4重極構造」になる)に入って地球に低温期が到来するという。 コントロール・フリークの人間でも太陽は制御できない。こればかりはただ眺めるのみだ。季節はめぐる。そして太陽もめぐる? Just relax and be with the universe.
昔の人がタフであったことを身をもって体験する。天守閣の階段を昇り降りさえすればいい。木材のみで作られた階段は、やたらと勾配がきつい。場所によっては蹴上がりの斜度が50-60度もあるという。現代人の退化した脚では一回昇って降りるだけで相当こたえる。
体験するためには、国宝級の、つまり古い時代に建てられ、当時の建築様式がよく保たれているものでないといけない。後から復元された天守閣では、現代風に改められている。国宝の天守閣は、姫路、彦根、松本、犬山の四城だ。 天守閣というと、そこに武士が大勢配置されている、或いは敵軍に囲まれて籠城している図を想像してしまう。ところが、天守閣は見張り台として以外は実際の戦闘で役立つようなものではなかったらしい。木造だから火をつけられればあっという間に燃え落ちてしまう。城主が普段起居していたのは、城内ではあっても別の建物だった。唯一の例外は信長らしいが、彼は天守閣(文献上は「天主」が最初の言葉のようだ)を「発明」した張本人だから言行一致のなせる業だろう。 信長は実力があったが、威力や地位を「見せる」パーフォーマンスも大好きだった。南蛮の帽子やビロード服、虎皮の腰巻から金ぴかの安土城まで、彼が所有していたモノは現代の感覚をもってしても派手に違いない。天守閣はその延長線上にある。信長のシンボル的クリエーションだ。 実戦に耐えられない建物を膨大な費用をかけて建てることができるほど、戦国時代以降の主要な大名・藩主には力とカネが備わっていた。皮肉な目で見れば収奪の産物だが、そのおかげで国宝の建物を今目にすることができる。そして、昔人の脚力に思いを馳せることとなる。
長野県のとある日本酒専門居酒屋で聞いた話だ。ごく一部の酒を除いて、たとえ長野県内の醸造所で作られた酒であっても、質の高い無濾過純米酒などは、東京から仕入れるという。一度、東京の取引先に出荷された日本酒が再度長野県に戻ってくるわけだ。生産量が限られているということもあり、まずは東京に出しておくことが重要になる。
フランス産のワインについても、物流は興味深い。将来の値上がりを見越してイギリスや中国の投資家が大量に買い入れ、しばらくの間保管しておく。いい値が付くという時に、市場に出して利益を稼ぐ。フランス産であっても、ワイン愛好家に好まれる高級なものは、イギリスや香港から日本に辿りつくことになる。 寿司ダネも、高級なものは一度築地に送られる。そこから各地の寿司屋にまわるが、地方の寿司屋にその地方のいい魚はなかなか届かず、東京や大都市近辺で消費されることが多い。ネタによってはパリ、ロンドン、ニューヨークへ飛んでいく。 流通が発達するとともに、商売が地域を超えて成立する。カネが動く場所にモノが集中する。地産地消の掛け声は聞こえるが、実際のモノはカネの命じる方向へ流れている。ただ、頭のどこかに、自然に逆らっているという気分が残る。 これは別に現代の病でもなんでもない。縄文時代に黒曜石はごく限られた産地から「必要とされる」他の場所へと送られ、拡散していった。貨幣制度こそなかったが、重要資源であった故に流通したのだ。奈良・平安時代、税として各地からその土地の名産品がミヤコに集められた。米だけではなく、魚介類や絹織物など多くのモノが遠隔地から運び込まれた。いつの時代も人間のいるところ、ごく「自然に」地産地消に背いていく。 それが人間だ。
木の緑がいい
特に新緑だ まねのできない自然の造形力、強い生命力 眺めていると、エネルギーが伝わってくる 初めて訪れる土地 フレッシュな驚き と、書いてみれば随分と凡庸だ。でも、それもいいだろう。日常のさ中に潜む非日常を描こうとする試みは、圧倒的な春の到来の前にあえなく崩れ去る。
これだけ情報の「コピー」が流通している時代というのは人類始まって以来だ。コンピューターが発達する迄は印刷することやLP/CD/video 生産などが「コピー製造」だったが、今や多くの人が個人ベースで毎日「コピー」をしている。メールやホームページでの「コピペ」、コピー機での紙コピー、CDやDVD、テレビの音・映像の複製、ネット・サイトのデジタル上でのコピーやアナログとしての紙への「プリント」など夥しい量の「コピー」が世界中で行われている。
更に、コンピューター・ソフトの多様化・低廉化により、こうした「コピー」を簡単に改変できるまでになった。その道のプロでなくとも、良く言えば「修正」や「合成」、悪く言えば「でっち上げ」の写真・映像・音楽が作れてしまう。以前は広告など「この写真は合成です」とか「はめ込み写真です」などと断り書きがあった。今は動画でやりたい放題やっても何の「白状」もない。ここ何年かのCMなどはそういう映像だらけだ。もちろん、映画は SFX と親密な仲となり、テレビ番組も程度の差こそあれ、その後を追う。音楽のスタジオ録音・制作も、コンピューターが導入されて以来、歌や演奏の手直しや追加はおてのものだ。ものによっては実際に演奏する人が一人もいなくても「音楽」になってしまう。 ごく限られた時間内で全てを最高の品質で作り上げるという緊張感はなくなっていく。いつでも「修正」できるのだ。たった一つの価値、という概念も薄らいでいく。失って困るものは「コピー」してとっておける。 もちろん、実際の生活では「修正」も「コピー」もできないことが多い。それこそ人間生活とはアナログの連続だ。でも、コンピューター・ライフが大きな時間を占めるようになると、できないという感覚が鈍ってくる。錯覚を呼び込む。覚悟の程度が浅くなる。「取り敢えずその程度でいいのでは」などという甘えが生まれる。「今、全部ちゃんとやらねばならない」という思いが違う次元の力を引きだす、という展開がない。 コンピューターを利用しながらも、それに毒されない。そういう心構えが今後益々必要になる。
最近、「問題意識を持とう」という発言を聞かない。理由は幾つかあるだろう。
その言葉の「旬」が過ぎた。「問題意識」自体が何の事だかわからない。「問題意識を持とう」と思っても、どうしていいのかわからない。「問題意識を持って」もどうにもならないと諦めている。「問題意識」の意義を認めない。 本来、自然には「問題」はない。考える人間が登場して初めて「問題」が現れる。人間による自然破壊などはその一つの象徴的結果だ。だから、人間がいるとろくなことはない、早く全滅した方が自然のためだという考え方もできる。一方、人間の存在自体は前提として、そういう悪い結果をもたらす人間ではあるが、ではどうやって最善を尽くすか、という問いかけもできる。理論的に突き詰めれば前者に辿り着くが、実際上は後者が普通の考えとみなされる。 そう考えると、善に向けて「問題意識」を持たないということは、自ら正しい人間としての存在を否定することだ。物理的には人の姿形をしているが、中身は違う。これは怖い。 70億の人々が少しでも問題意識を持てば世界は変わる。それぞれが果たせる役割の中で、人と自然、つまり地球と宇宙のために行動しよう。そうすれば、それは必ず人に善として返ってくる。
世の中すべてつながっている。
変化に富んだ山、素晴らしい景色と温泉がある。地熱発電の可能性が他の国より高い。これらは地震頻発国の別の顔だ。オーロラはきれいだが、これは太陽での大爆発、フレアのせいで、この時には地球に向けて強い磁気や放射線が向かってくる。 どちらも自然のなせる業だ。本来的には良い悪いの問題ではない。誰も文句をつけることはできない。いや、つけるべきものでもない。「人間にとって」気持ちのいいものだけ残して後はいらないというのは、思い上がりというものだろう。多彩な温泉を楽しみたいのであれば地震が多く、かつ大規模であることは甘んじて受け入れるべきだ。今後これまでにないような大規模な太陽フレアがあれば、強い放射線が降り注ぐのを雲や大気で防ぎきれず、人間は被曝することになる。太陽はその存在自体が核融合だ。地球の生命はその恩恵をフルに受けている。 遠い将来、地震や太陽フレアによる放射線を人工的にコントロールできるようなとてつもない技術が生まれないとは言えない。人間はこれまでもずっと「自然災害」を防ごうとしてあらゆる技術を開発してきた。台風上陸には堤防を作り、家屋を補強する。河川の氾濫にはダム建設、護岸工事、地下水槽設置などで対策をとる。でも、それらの対策が別の問題を招く。河川のコンクリート化は動植物を駆逐した。ダムを作っても同様だ。下流や流れ込む海の生命に影響を与える。 だいたい「自然災害」という言葉がおかしい。自然には「災害」はない。自然は自然にそのまま存在しているだけだ。「人間にとって」という観点を導入するから「災害」になってしまう。その「人間にとって」は多くの場合利己的動機がベースになっている。川沿いの低地に住めば、氾濫した時「災害」になる。長い人類の歴史で低地に定住するようになったのはごく「新しい」時代だ。人口が増え、住む場所に困って低地に進出したり、穀物を栽培する目的で低地を開発した。そうなる前までは自然に配慮して低地はそのままにしていた。 人口が70億を超えてしまって、これまでこんがらがって「つながっていた」様々な因果関係がますます複雑になっている。社会として自然に配慮することは「自然災害」の言葉ができた段階で既に過去のものとなっていたが、今やもう個人レベルでも配慮しようとしてもできなくなってしまった。普通の人が生活するための最低限の消費(衣食住)でさえ、ありとあらゆる因果関係によって必ずどこかに反自然的要素が紛れ込む。「人間にとって」理念が社会通念となって全てをがんじがらめにしているのだ。山に一人籠って洞窟に住み、採集生活で生きようとしても、その山自体が国有か民有か誰かの所有物だ。多くの湧水は飲用には適さず、たとえ自前の山があったとしても世俗と一切縁を切って越冬できるとは到底思えない。 人間は既に自然の中での限度を超えてしまった。この上更に地震や太陽フレアによる放射線をコントロールしようということが起きるとしたら、それは何か大きな自滅的行為につながるような気がしてならない。コントロールは夢物語かも知れない。でも、地震予知と対策、太陽フレア予知と対策は着実に「進歩」している。方向はコントロールに向かっている。それが「人間にとって」いいからだ。でも本当にそうか。 火山の噴火、台風、地震は自然にとって最後の砦だ。日本では三者揃い踏みで、かつそのどれもが大規模だ。日本でアニミズムが発達したのはこれと無縁ではあるまい。自然に対する畏れ、そのおかげで日本人は自然を愛でる心を育んできたのではないか。 もうアニミズムには戻れないのは承知している。自然との離縁は最終段階だ。自然からの最後通牒の1 ページ目は昨年の大地震だったということになるのか。2ページ目は富士山の噴火だろうか。自然との最後の交渉が断たれた後にはいったい何が起きるのだろうか。 *1月下旬から高緯度地域で大規模なオーロラが発生している。北欧や北米でのオーロラ観光は日本人が好きな旅行らしいが、オーロラは太陽フレアによって強い磁気嵐が起きた時に激しくなる。また、地球上の衛星、無線通信に多くの悪影響が及び、地球磁気圏外では、太陽から放出されるX線、ガンマ線によって宇宙船の乗組員が被曝したり、安全確保のため航空機が飛行ルートを変更せざるを得なくなったりする。
今年の冬は例年になく寒さが厳しい。気象庁がそう言っている。日本海側は記録的な豪雪に見舞われている。毎日の雪かきが大変だ。
風雪に耐えるのは風雨に耐えるのより大ごとだろう。これは雪が雨よりへヴィーだからだ。同じ水起源でも、蓄積された方がインパクトがある。流れていくものには頓着する必要がない。 デモも街頭を行進することによってアピールはできるが、何日も、場合によっては何か月も同じところに座り込んだ方がデモを取り締まる方から見れば「厄介感」が増す。同じ人の集まりでも、流れるより滞っていた方が説得力があるわけだ。 ただ、そこには質という別のファクターも考慮に入れなければならない。何をどう訴えるのか、はっきりした目的とそれを効率よく達成する手段がものを言う。ぼた雪と粉雪では対応が全く違う。周りの環境への影響、特に第三者に対する配慮は期間が長びけは長びくほど重要になる。 ここ1年、世界ではデモと集会が大きな役割を負っている。個人としてどういう雪になるべきか、はたまた雨でやり過ごすのか、思案のしどころだ。
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